チンギスの4大オルド
  • 大皇后ボルテ・フジン(オンギラト族)
  • クラン・ハトン(メルキト族)
  • イェスイ・ハトン(タタル族)
  • イェスケン・ハトン(タタル族)
    (イェスイとイェスケンは姉妹です)
←チンギスと后妃たちが亡くなった後も存続し、チンギスの御霊を祀る八白室のもとになりました。

遊牧民の男は普段遊牧に行ったり戦争に行ったりして留守なので、家の周りを守って管理するのは女の仕事。つまり、男が決めるのは戦争と放牧のことだけで、家の中の普段の生活では、女性の意見を聞かないことには始まりませんでした。

この構図は、貴族や国家の規模になったも変わらず、チンギスは妻たちに自分の個人資産の運用を任せていました。
四人の大后妃たちは、チンギスの取り分だった戦利品や戦争捕虜を分配され、自分の領地や隷属民とし、自身でも領地の視察に行くなど、会社の経営者のような実務仕事がありました。
(日本の江戸時代の大店も、旦那は外で交友を広げてくる営業が仕事で、実際の店の切り盛りはおかみさんがやってたのと似てますね)

封建領主の集合体であるモンゴル帝国では、臣下の部族長たちには納税の義務はなく、ハーンは自分の直轄地の収益で暮らしていたので(これも江戸時代の幕藩体制と似てます)、財産の運営責任はとても重要でした。

当然、后妃の発言力も強くなり、『元朝秘史』にはチンギスがたびたび女性に重要なアドバイスを受けてその通りにする場面が描かれています。後継者問題などの重要な政治問題にも、女性が意見を述べていました。(チンギスは本当に、感心するほど女性の意見をよく聞きます)
ハーンが死ぬと、部族会議(クリルタイ)で次のハーンが選出されるまで、正妻が監国として政治を行うことも慣習とされていました。

このような、難しく複雑な仕事をするには、出身部族のバックアップが重要だったし(一人で出来るわけがない、秘書官がたくさんいたのです)、部族のものも、自分たちの利益に直結するので、オルドの動向には敏感でした。
元朝では、大ハーンの正妃は必ずコンギラト族(ボルテの弟、アルチの一族)の姫でなければいけないことになっていましたが、これは習慣というより、コンギラト族の実質的な政権キープ方法でした。(元朝見てると、モンゴル政権というより、コンギラト政権といったほうが正しいんじゃないかと思えるほどです)

そもそも、オルド自体も后妃たちの手によって運営されていました。
定住民の後宮は入ったら二度と出られない牢獄ですが、遊牧民はしょっちゅう移動するので深層に閉じ込められるというものではなく、家族に会うことも出来ました。(というか、それが重要)
(娘の花嫁修業だったりお宿下がりしてこれる日本の大奥なんてかわいいかわいい。
中国の後宮は入ったら二度と出られない、家族と会うどころか連絡さえ出来ない、よその惑星に飛ばされたみたいなもんです。
新しい皇帝がたつと後宮が一新されるので、皇帝が死にそうになると、結婚禁止令が出て娘狩りが行われる前に、家族はもうどこでもいいからとにかく縁談話を進めて娘を片付けました。そうまでして集めた娘が数千人、数万人。とても皇帝一人で相手できるものではないので、レズ解禁でした。)

一説によると、チンギスのオルドには500人の妻妾がいたといわれています。これを多いと思いますか、少ないと思いますか。
中国の後宮美女3000人、と言いつつ多いときにはゼロ1個追加(下手すりゃ1年に300人づつ追加)というバカバカしい数に慣れていた私は、世界征服した男の後宮にしちゃ少なすぎる、さすがは持って歩けるものしか持たない遊牧民だと、感心したものでした。
実際にはもっと少なく、中国の史書『元史』には、チンギスの妻として39人の名前が上がっています。
孫の世代のバトゥ(ジュチの嫡子)の後宮には26人の妻がいたと報告があるので、最高家格の皇族で、30人前後の妃を持つのが普通だったと思われます。その女たちが2、3人づつ子供を産めば、40人なんてあっという間でした。
田舎の小さい草原部族がいきなり世界制覇したので、支配者層たるモンゴル人の数が足りず、人口を増やすことがとにかく大命題だったので、けして多すぎる数ではありません。

臣下となった諸部族は、競って選りすぐりの美女をハーンに献上しにきたし、敵部族(国)の女を娶ることが戦勝の宣言でもあったので(だから女性は殺されない)、どう少なく見積もっても傘下に入ったり征服したりした数だけ女性がいたことになります。
先に上げた500人という数は、こうしてモンゴルにやってきた女性たちがいったんチンギスのオルドに入り、そこから親族や将軍たちに分けられていったことを意味しています。
彼女たちは全員、出身部族の命運を背負った親善大使だったのです。
(政略結婚がかわいそうなんて言ってないでよ。昔はどこの国もそれが普通です。日本だって、これを読んでる方のおじいさんやおばあさんが恋愛結婚だった家がどれだけあります?)

もともと動物の繁殖にかかわる遊牧民は、血が濃くなることの弊害をよく知っていて、自分の部族の娘とはけして結婚せず、必ずよその部族からお嫁さんをもらっていました。(族外婚) 
婚姻関係が結ばれて姻族(インジェ)となると、その当人同士の部族が同盟関係になります。婚姻は重要で確実な安全保障の手段だったのでした。だから旦那は奥さんたちを大事にしなきゃいけません。奥さんにそっぽを向かれたら、その部族からクレームがきたり、下手したら攻められてしまいます。
エスガイが命懸けでもホエルンをメルキト族に渡さなかったのもそれに関連します。メルキト族とオルクヌウト族(モンゴルの東にいました)に同盟されたら、間に挟まれたモンゴルなんて、あっという間に潰されてしまいます。

正式な嫁取りの場合、男が婚約した娘の家に入り、何年か一緒に過ごしてから、自分の集落に連れ帰ります。
(いっしょに住んでる間の労働奉仕が持参金だったともいえます)
テムジンも9歳でボルテの実家のオンギラト族に預けられ、嫁取りの準備をしていました。
エスガイが急死しなければ、そのまま成人までオンギラトにいて労働奉仕をし、ボルテを連れてモンゴル族に戻ってきたはずです。

ちなみにモンゴルには成人式にあたるものはなく、男も女も結婚することで成人とみなされたので、テムジンもそれで成人。
エスガイから財産を分けてもらって、もとの部族から少し離れたところに自分の集落をたてることになったでしょう。

夫が死ぬと、生母以外の妻妾を、跡を継いだ息子が妻に出来ました。(嫌なら奥さんから断れます)
蛮習だと非難されますが、つまり身寄りのなくなった女性に保護がつくということで、残った未亡人に暗に後追い自殺を強要する儒教思想より、よほど人間的な習慣かもしれません。
(特に朱子学成立後の儒教はすっさまじいからねυ
そもそも「未だ死んでない人(女)って単語がすごいじゃん。)